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脚下照顧:己に矢を向ける

「足元に目をやり、ちゃんと履物を揃えましょう」という意味で標語的に使われがちな言葉ですが、真意は別にあります。元来は外(自分以外の何か)に向かって悟りを追及せず、まず自分の本性を真っ直ぐに見つめなさいという修行者に対する戒めの言葉として使われてきたそうです。抽象的には「己に矢を向けよ」と解釈することができ、修行者にとっては悟りをテーマに語られたということです。

「脚下照顧」はキャリアを考え行動する際にも心掛けたい概念です。

例えば「自分は本当は何をやりたいのか」という問いへの答えは、最終的には自分の中にしかありません。価値観や好き嫌いの感覚、天性あるいは人生をとして養ってきた得意不得意の領域など、まさに自らの本性を軸に個別解を模索するのです。

それにも関わらず「人気企業ランキング」や「知名度ランキング」あるいは「友人・家族の評判」に左右され選択するということは、私たちの身の回りで当然のように起こっていることです。

もちろん「何をやりたいのか」を知るために、やる対象を理解する意味で起こすアクションは一定必要でしょう。やってみて事後的・回顧的にしか知り得ないものがある、まさに「冷暖自知(冷たいも熱いも自ら体験しないとわからない)」といえることがあるからです。

ただしその方法が有効になる条件は、自分と向き合う努力を同時にしていることです。

ただ手当たり次第にやりっ放しの場合は、評価ができない/そもそも評価をしようと思わないのです。一方で対象を理解するという目的を持ち、自分と向き合う努力をした場合には「自分がどう感じたか」「なぜそう感じたのか」まで深くその対象と自分の関係性・相性まで理解することができます。それが自分自身の内側から個別解を見つけるヒントになるのです。

インターネットや移動手段の高度化により、自分の外側にある情報が容易に手に入る時代になりました。目まぐるしく変化する自分の外側に意識を奪われ、自分の内側との対話が疎かになっていませんか。足元の靴は、しっかりと揃えられていますか。

私たちはいつでも、わかりやすく変わりゆくものに目を奪われがちです。春夏秋冬と移ろう季節やさらさらと岩の間を流れる川の水、朝令暮改な時代の価値観、アラームと共に更新され続けるSNSのウォール、待った無しに突き進むテクノロジー。

多くの変化に注意を払わなければならない社会を生きているからこそ、変化を感じている主体の自分は何者なのか、変化を受けて自分は何を感じ何を考えどう生きる選択をするのか、そして自分自身はどのような変化をしているのかに目を向ける必要があるのではないでしょうか。

自分の足元が見えていない人は、自分自身が見えていない人。それは同時にこの世界を自分を通してみることができない人であり、誰かを通して見た世界を生きることになる人です。それは豊かなキャリアを生きる権利を手放すことでもあります。

自分の外側ばかりに目を奪われていないか。誰もが陥りがちなキャリアの落とし穴の存在を気付かせてくれる言葉です。たまには足元に目を向けて、靴を丁寧に揃えてみましょう。

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