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キャリアを考える出発点

唐突ですが、このような問いが頭に浮かんだことはないでしょうか。

-どうせ死ぬのに、なぜ生きるのか。

毎日こんなことを考え続けているわけではありませんが、私は最近、ふとしたきっかけで仏教に興味を持ち、それを学んでいる中でこの問いに出会いました。

幸いにも(?)、これまでの人生で死を身近に意識したことはなかった私には、とても新鮮で強烈に問いに思えました。ただ言葉の表現に惑わされず冷静に向き合ってみると、誰にとっても極めて重要な問いかけであることに気付きました。

なぜなら、誰もが「人は誰もが必ず死を迎える」「この人生はたった1回しかない」「その死はいつ訪れるかわからない」という原則のもと人生を生きている以上、実は誰もが“どうせ死ぬのに生きている”と言えるからです。

​前半の「どうせ死ぬのに」は、長くて100年、約36,500日しか生きられないことは事実としてあるため、あまり考える余地はありません。そこで後半の「なぜ生きるのか」と向き合ってみることにしました。

「なぜ生きるのか」を考えるためには、その前後を知りたいと思いました。つまり、「なぜ生まれてきたのか」と「死んだ後はどうなるのか」です。しかしそれらはどう考えてもわかりようがありません。

母親が何かの目的を与えて産み落としたわけではありませんし、私もそもそも生まれてきた意思も記憶もありません。気付いたら生まれ、生きていたという表現が正しいかと思います。

死んだ後の話は諸説ありますが、どの説も正しさを確かめようがありません。死んだ体験がある人は生きて語らないからです。死んでみないと、死んだ後のことはわかりません。

そうなると「なぜ生きるのか」に意思や目的はなく、産まれ生かされてきたから、今も生きているのではないかと考えることもできます。しかし、その考えにも違和感があります。なぜなら究極的に死は選択できるからです。生か死かしかなく、死を選択できるのであれば、死なずに生きることも人の意志ある選択ではないかと思ったのです。

そのように考えていくと「なぜ生きるのか」という問いへの答えは“わからない”です。そして答え以上に大切なことは、それでも今生きている人は少なからず生きる選択をしているということです。

このように、「自分の意思で生きる選択をしていること」を自覚することが、キャリアを考える出発点なのではないかと私は思っています。私たちが“どうせ死ぬのに生きている存在”であることに変わりはありませんが、同時に“それでも生きる存在”でもあるのです。

自分が“それでも生きる存在”である自覚があれば、次に考える問いは「(死ぬまでの期間を)どのように生きるか」であり、まさにそれはキャリアを考えることそのものです

尊敬する多摩大学大学院教授の田坂広志さんは、死生観を定める行為についてこのように語られていたことを思い起こします。

「死生観を定めると今を生き切るという覚悟が生まれ、そのように人生を生きるのなら自分の中に眠る才能が開花し始める。」

豊かなキャリアの一つの在り方は「(能力を最大限発揮する)最高の自分で生きること」だと思っています。最高の自分で生きる挑戦する際には、生きることや死ぬことについて自分なりに考えていることが土台となるのかもしれません。

どうせ死ぬのに、なぜ生きるのか。

この問いかけは「生の自覚」という極めて重要なことに気付かせてくれました。そして同時に、もう一つ重要な学びがあるように思います。それは「わからないことは、わからないまま放って生きる」ことの重要性です。

キャリアを考えるときには「自分は何をやりたいのか」「最も向いている職業はなんなのか」「どのような人生を生きたいのか」「どんな要素にやりがいを感じるのか」など、答えのわからない問いを抱えます。

その問いに押しつぶされて身動きが取れないなら、一旦放っておいて、まず歩き始めてみるのはいかがでしょうか。生きる理由がわからないまま、既に数十年も生き始めているのと同じように。

「人生に意味を尋ねてはいけない。我々が人生から尋ねられているのだ。」

どなたの言葉か忘れました(&正確な言葉ではないかもしれません)が、もともと産まれて死んでいくことに意味など与えられておらず、産まれてから死ぬまでに見出していくものだと思わせてくれる力強い言葉です。

キャリアを考える出発点は、生きることを選択している自覚を持つこと。その前提の支えがあるからこそ、私たちはキャリアを考えるという難題に前向きに相対することができるのではないかと思います。

A blog by Naota Nakamura   since 2016.

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